音楽とのご縁
4歳の時に引っ越した家のお隣は、耳鼻科の開業医とコンサートピアニストのご夫婦でした。
ちょうど私と弟と変わらない年頃の女の子が二人居り、4人で家の前でチャッチボールをしたりして、
よく遊んだものです。
お父さんのお医者さんには、扁桃腺を腫らせた時など、たまに診てもらいましたが、
大柄でダミ声で、子供の目から見ると、とても怖かったのを覚えています。
お母さんの方も大柄で、余分な事は言わないけれど、言う時は単刀直入あるのみ、という印象で、
姿勢良く高いところにあるお顔を見上げると、白く形の良いお鼻がつんと光っていました。
これは高度成長期の日本のことですから、今から思えばかなりのヤッピー家族だったのだと思います。
お母さんは、どのくらいのレベルのピアニストだったのかは不明ですが、
毎年どこかでリサイタルやコンサートをされていて、そのための練習に余念が有りませんでした。
毎朝、5時起き、そしてジョギング、それから住み込みの看護婦さんを叩き起こし、
(娘たちに寄れば、時には蹴り起こし、)
(娘たちに寄れば、時には蹴り起こし、)
それから約3時間、うちの父の言葉を借りると、「雨が降ろうと槍が降ろうと」練習です。
それほど広くもない庭を隔てて毎朝聞こえて来るピアノの音が、
うちの父にはずいぶんとうるさかったらしく、「あのクソ婆ァー」と舌打ちする事もありましたが、
私には別にとりたてるほどのこともない日常でした。
庭で虫をいじって遊んでいるときなど、知らず知らずの間に曲を心の中でなぞらえていたようで、
「さぁ、ここで間違うぞ、今だぞ」と思うと、必ずそこでつまずいてしまう弾き手に、
苛立ちさえ覚えたものです。
とにかく練習ですから、難しいところは何度も弾くし、テンポや音色を変えてみたり、
あれやこれやとやってみる訳です。
そのうち、私自身もよそでピアノを習うようになり、すぐ近くに音大もありましたから、
私の毎日はクラシック音楽が空気のようなものでした。
小学校に上がってしばらくすると、音楽鑑賞の時間がありました。
ある時、先生が「ベートーヴェンのピアノソナタ xx 番」と言ってレコードをかけると、
なんと、知っているではありませんか。
知っているどころか、曲の最初から終わりまで、歌えと言われれば歌える訳です。
それをきっかけに、自分がショパン全般、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンの曲の多くを、
まるで自分で弾き抜いてきたかのように、まるごと諳んじてしまっている事に気付き始めたのです。
NHKのコンサート番組を見ると、熟知している曲がかかる、
ラジオを聞けば、これまた聞き飽きた曲が流れる、という具合に。
そうするとすぐに、色々な人は色々な弾き方をするものだという事に気付きました。
とにかく、もう目をつむっていても歩ける道を往復するようなものですから、
ああ、この人はここでジャンプするんだな、この人はこの辺りでねばねば行くんだな、などと、
まるでワイン飲みが御託を並べるがごとくの聴き方になってしまうのです。
それから何十年も後、最初に結婚したアメリカ人の夫の家族は、
親戚がニューヨークの高名な歌劇場の重役であったりしたことから、家族中が音楽通で、
前夫自身もチェロをやりました。
彼の弟は、これまたコンサートピアニストでしたから、周りに音楽家がウヨウヨして居りました。
ある日、私の「クラシック耳」に自信を持たせる出来事があったのです。
ニューヨークの弟の部屋に、彼のジュリアードの友達数人と集まり、
近頃はクラシックのラジオ局も選曲が悪くなった、などと言いながらラジオをオンにすると、
シューマンのエチュードがかかっていました。
すぐさま、弟たちは、ああだこうだと弾き手の弾き方を批評し始め、
結局、いったいこれは誰が弾いているんだという事になりました。
「エゴの塊のイヴォ(英語ではエゴとイヴォがなんとなくロゴるのですが)ポゴレリッチに違いない」
「いや、先頃売りまくっているアシュケナージが、またレコーディングしたか」
などと、ピアニストの卵たちの意見はヒートアップしていましたが、
私はワイセンベルグではないかと思いました。 なぜかそう思ったのです。
ここで強調したいのは、私は、決して情熱的なクラシックファンではないのです。
レコードやCDを買っては貯め込み、毎日聴いてはうんちくを述べるなどとは、ほど遠い人間です。
しかし、一度でも聴くと、その人の弾き方やクセが、あたりまえのように分かります。
一度紹介されれば、なんとなくでも顔を覚えているのと変わりません。
そして、それはワイセンベルグでした。
弟達は、ビックリして、さして音楽知識もない私に、どうして分かるんだという表情でした。
だから本当ですね、子供の時にクラシックを聴かせると、音楽性の有る子に育つというのは。
B&B Pinevalley