雨乞い
降りそうで降らない、このイヤなお天気。
毎日、天気予報と雲行きを見る頻度が増して行き、空を見上げる自分の表情ばかりが曇って行く。
都会から来たものにとっては、雨水で生活するとことが云うことが、むやみにロマンチックに思えたものだが、
こうして雨にストライキされてみると、人間としての当然の権利が侵されているようで、
むしょうに腹立たしくなってくる。
まだまだみずみずしさを保っている木もあるけれど、葉を枯らせ始めている精のない木もある。
爽快であった筈の朝の散歩も、病棟めぐりの医者になった気分。
都会人、というのは本当に弱いものだなと思う。
生活に必要な、実に様々なものを、自分に与えられた至極当然な権利のように受け取って疑わない。
その権利品の山は、テクノロジーの進歩とともに量高く積み上げられ、
その代償に、自分が捨て去った生来の能力を、惜しいとも思わない・・・
こんな風に考えると、朝っぱらからコンピューターにかぶりつき、ブログ投稿に精出すなんて、愚の骨頂かもしれない。
まだ枯れずに流れている下の小川まで行って、せっせと水を運んでくればいいのだ。
それが済んだら、雨乞いの踊りでもすれば、天は哀れな都会人の悲壮なる思い入れに、一雨恵んでくれるかもしれない。
居間の絨毯の上に、娘が昨日描き上げた絵があった。
海が赤く、人と貝殻の大きさが変らない、考えてみると奇妙な絵。
でも、考えなければ、なかなかいい絵だ。
昨日、お友だちと拾ってきた貝を器に入れながら、思いついて描いたものらしい。
以前、ハリウッドの女優などに、「自然な歩き方」の指導をしていると云う人に聞いた話では、
(おかしなことを指導するものだと思ったけれど)
人間は、4歳くらいから、健康で自然な歩き方を徐々に失って行くものだと。
それを失わないでいるのは、遠く文明から離れた孤島の女性くらいなのだそうだ。
かつてタヒチの女に限りない美しさを見たゴーギャンは、
ビーチを行く彼女たちの、その典雅にして優美な「歩き」にも魅せられたのかもしれない。
川へ水を汲みに行って来ます!
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